犬飼和雄先生と武田八幡宮での奉納演奏
能登半島の大地震、羽田飛行場での大惨事で始まった今年の年明けに、もう一つ悲しいことがありました。一月一日の深夜、酒折在住の犬飼和雄先生が亡くなられたのです。先生は、一九六五年山梨大学に英語科の教授として赴任なさいました。山梨大学におられたのは、一年だけでしたが、奥様の道子先生は、山梨県立女子短期大学の創設と同時にそこの教授職に就かれ、以後六十年近く先生ご一家は山梨県人として過ごされました。
武田の歴史に強い関心を示され、史跡を巡り歩いて、そこに生きた人々の心を織り込んだ詩歌を作られました。一九八二年には、先生が何作も翻訳出版をなさったスゥエ―デンの作家、エリック・ホガード氏を招き、武田の歴史を基にした作品を書いてもらっています。
酒折に越されてからは、先生のお宅のすぐ西隣に位置する酒折の宮に強い関心を示され、記紀に書かれた「酒折の宮問答歌」を掘り下げ、壮大な古代甲斐王朝論に取り組まれておられました。ご高齢にもかかわらず、先生の頭脳は衰えることを知らず、この古代甲斐王朝論から発展する更に大きな日本の歴史を構想しておられました。
山梨大学でたった一人卒業論文を指導していただいた私は、以後先生が移られた法政大学の教え子さん達と一緒に、史跡巡りのお供をして勉強させてもらいました。「作品は足で書くものだ」と言うことを教えられたのです。先生は芯からの教育者でした。人を育てるのがお好きだったのです。二度の中国成都の留学先の四川大学からも、向学心に富んだ学生さんを何人も日本に招いています。「人間は生きている限り勉強するべきだ」と言うのが先生の座右の銘で、私たちの学習会は何十年も続きました。私たちの会以外にも先生の周りにはいつも勉強しようという方々が集まっておられたように思います。
先生を知る人は誰もがびっくりなさるでしょうが、先生は、たくさん歌を作曲しておられます。先生が創られた詩歌に合わせて楽器奏者に音を出してもらい「その音ではない、もう少し高く」とか「そこはゆっくり」とか注文を付けて、先生の頭の中にあるイメージを音符にしていかれたのだそうです。そして、山梨の才能ある隠れたアーティストたちで、「梁塵」という音楽グループを創られました。
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東日本大震災のあった三月十一日は旧暦の二月十九日になるそうです。勝頼夫人が願文を奉納したその日です。日本中が忘れられない大震災の日から何年か経っていました。その年の奉納演奏は三月十一日に決まったという連絡を受けました。三月だというのに、少し前から日本列島を襲っていた寒波のせいで、凍り付くような寒い日でした。夫を思う若き勝頼夫人の悲願を込めた願文を、先生が作曲したメロディに載せて奉納するのです。
歌手の佳川さんが歌う済んだ歌声が真っ暗な森の木々の間に吸い込まれていきました。演奏は先生が中国から招いた胡弓奏者張剣さんでした。馬のいななきや松風の音さえも織り込んだ見事な演奏でした。何度もこの演奏会は聴かせてもらいましたが、その年の演奏は最高でした。鎌田さんの落ち着いた語りが聴衆を別世界に連れて行ってくれました。夕闇の中にすっと立った杉の木立の隙間から、遠くに七里ケ岩の上の街灯が透けて見えました。
この日、せめて川の手前からでも武田八幡宮までの道を歩いて、勝頼夫人の足跡に近づきたいと思っていたのにやめてしまったので、黒ぐろとした七里ケ岩と釜無川をはさんだこの山腹までの距離が今までになく気になりました。冬枯れとはいえ、釜無川には今の何倍も水が流れていたはずです。夫人はお供に蓮台で運んでもらったのでしょうか。浅瀬を選んで足袋と藁草履をはいたまま尻はしょりをして冷たい水中の石ころを踏んで歩いたのでしょうか。目立たない密かな行脚だったでしょうから、後者のようだったような気がします。川を上がってからも、半里ほどもあるこの坂道を歩いて奉納に来られたのです。
そんな姿をありありと想像させるような、まるで神楽舞台の上の演奏者が大自然向かって演奏しているような静けさでした。いつもより多い三十人ほどの聴衆がいたのに、その人たちの息遣いさえも感じられませんでした。自然の静けさを人々の静粛さがさらに引き締めていたと言えるかもしれません。
「なむ きみょうちょうらい はちまんだいぼさつ~」歌姫の美しい声が勝頼夫人の悲痛な叫びに聞こえ、思わず私も一緒に祈っていました。夫勝頼を勝たしてくださいと祈る若い夫人にできるのは、こうして神にすがるしかなかったのです。戦況が不利になればどうなるかはわかっていました。それが戦国の世だったと言っても何ともいたわしいことです。
この武田の歴史を甲斐の国の私たちは、最も身近で起こった歴史として教わり、両親から聞かされてきました。八幡宮の対岸の松林の中には新府城址があることも知っています。塩山の奥には岩殿山があり、小山田氏の裏切りで先に進めず一族の終焉の地となった天目山があることも聞いていました。でも、歴史を歴史として学んでいただけで、そこに生きた人々を偲ぼうとしませんでした。いいえ、偲んでいた人は大勢いたと思います。でも、こういう形で歴史を甦らせ、鎮魂歌として残そうと思い立ち、実行した人は、「原甲州人」ではない犬飼先生を除いてはいなかったと思います。思い立った人はいたかもしれません。でも、それを形にするのはまた別のことです。先生が発掘して育てた「梁塵」と言うグループがあったからできたのです。その人たちに巡り合ったことは先生の幸運でした。そして、こんな形で鎮魂歌が残されたことは、甲斐の武田一族の、もっと言うと山梨の幸運でした。
「勝頼夫人願文」の演奏は、あの冬の大自然の中ほどふさわしい所はないとつくづく思いました。杉の大木に覆われた山と、前方に控える長大な釜無川と七里ケ岩が聴衆として欠かせない存在だからです。勝てないとわかっている敵でも、一縷の望みを託して神にすがろうとする悲惨な願いを聴き、四百数十年後にそれに共感して曲を付した願文を聴いたのは、この大自然です。犬飼先生はもういませんが、じっと黙して年月を耐え抜いた自然は、あの夕べも連綿と続く歴史の一頁として刻んでいくでしょう。私にとってあの夕べは、ほんの一瞬でしたが、奉納演奏をとおして自然と一体になれた貴重な時間でした。先生、山梨に来てくださり、山梨を愛してくださって本当にありがとうございました。 楠本君恵(旧姓沢登)